岩男考哲氏は神戸市外大の先生である。
彼は、これからの日本語学を背負って立つ、中堅研究者の一人であり、数多くの査読論文を発表し、単著も書いておられる。
引用形式を含む文の諸相 叙述類型論に基づきながら
この度、『名詞研究のこれまでとこれから』という本を上梓され、ご恵投に与ったので、御礼方々紹介したくなった次第。
名詞研究のこれまでとこれから
といっても、彼の論考の内容そのものに、ここで触れるつもりはない(拙論を引いて議論してくださっています。こちらにも感謝)。
今回紹介したいのは、彼の文章力である。
一言で言うと、彼の論文は極めて読みやすく、明晰である。
こんな論文が書いてみたい。この文章力があれば次々に査読に通るのも肯ける。
そんな文章である。
何がそんなにすごいのか?
一言で言うと、読者が迷子にならないような仕掛けが、至る所に施されているのである。
まず最初に、この論文で何を目的にするか、どのような結論を導くか、その結論を導くためにどのような議論がなされるかが数行で書かれている。そして、その通りに各セクションが進んでいく。
セクションの中でも、いま読者は、全体の中のどの部分を読んでいるのかということが、大凡1ページに1回は明記されている。次のような感じである。
ここで彼は、「ここまでで述べたことは、先行研究のまとめとそれについての指摘である」ことを述べた上で、次にこの論文で彼がそれを「どのように捉えているかを述べる」としている。ご丁寧に、その結論として「これら2点は関わりがあるということを論じる」と書いている。
こんなの当たり前と思われるかもしれないが、その当たり前のことができる学者は稀少だと思う。僕も含めて、彼の文才には遠く及ばない。
*******************
以下、うっかりデスマスで書いたのでセクションを変えてと……
内容については、いずれどこかで発表することもあるかと思いますが、ここでは読者の関心のために、彼がやっている「評価的意味」の分析対象についてだけ紹介しておきます。
「Nときたら」という表現は、何らかの評価を伴います。
(1)山田ときたら、今日も遅刻しやがった。
(2)堤ときたら、まったく信用ならない。
のように。
(3)??今日の天気ときたら、晴れです。
(4)??山田ときたら、大卒だ。
これらの報告調の文体では、「Nときたら」文は不自然になります。(これは堤のオリジナル分析であって、岩男はそこまで言っていません。僕の理解であることを断っておきます)
ところで、「ときたら」というのは「と」(引用)+「来る」(動詞)+「たら」(条件)という組み合わせでできている表現で、そのどこにも、「評価」とか「感情」といった意味は見いだせません。なのに、なぜ、評価の意味は生じるのか? これが彼の問題設定です。
この分野の研究はまだ始まったばかりという気がしています。
こちらについては僕もいくつか書いておりまして、参考にしていただければと思います。
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/list/ou_authors/T/50a35788630f79f374506e4da22f6611/item/54446
バリエーションの中の日本語史
岩男考哲(2021)「名詞に対する「評価的」意味はどのように生じるのかー「評価的」意味研究の更なる発展に向けて-」『名詞研究のこれまでとこれから』106-125,くろしお出版
★この文章はnoteのものと同じです。
彼は、これからの日本語学を背負って立つ、中堅研究者の一人であり、数多くの査読論文を発表し、単著も書いておられる。
引用形式を含む文の諸相 叙述類型論に基づきながら
この度、『名詞研究のこれまでとこれから』という本を上梓され、ご恵投に与ったので、御礼方々紹介したくなった次第。
名詞研究のこれまでとこれから
といっても、彼の論考の内容そのものに、ここで触れるつもりはない(拙論を引いて議論してくださっています。こちらにも感謝)。
今回紹介したいのは、彼の文章力である。
一言で言うと、彼の論文は極めて読みやすく、明晰である。
こんな論文が書いてみたい。この文章力があれば次々に査読に通るのも肯ける。
そんな文章である。
何がそんなにすごいのか?
一言で言うと、読者が迷子にならないような仕掛けが、至る所に施されているのである。
まず最初に、この論文で何を目的にするか、どのような結論を導くか、その結論を導くためにどのような議論がなされるかが数行で書かれている。そして、その通りに各セクションが進んでいく。
セクションの中でも、いま読者は、全体の中のどの部分を読んでいるのかということが、大凡1ページに1回は明記されている。次のような感じである。
以上が、本稿の注目する先行研究の指摘である。続いて、これら2点について本稿がどう捉えるかを述べていきたい。岩男(2014,2019)では上記のような指摘がなされているものの、それらの間の関連性についての考察が十分に行われていない。しかし本稿では、これら2点は関わりのある指摘だと考える。以下、この点について述べていこう。(岩男(2021:112))
ここで彼は、「ここまでで述べたことは、先行研究のまとめとそれについての指摘である」ことを述べた上で、次にこの論文で彼がそれを「どのように捉えているかを述べる」としている。ご丁寧に、その結論として「これら2点は関わりがあるということを論じる」と書いている。
こんなの当たり前と思われるかもしれないが、その当たり前のことができる学者は稀少だと思う。僕も含めて、彼の文才には遠く及ばない。
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以下、うっかりデスマスで書いたのでセクションを変えてと……
内容については、いずれどこかで発表することもあるかと思いますが、ここでは読者の関心のために、彼がやっている「評価的意味」の分析対象についてだけ紹介しておきます。
「Nときたら」という表現は、何らかの評価を伴います。
(1)山田ときたら、今日も遅刻しやがった。
(2)堤ときたら、まったく信用ならない。
のように。
(3)??今日の天気ときたら、晴れです。
(4)??山田ときたら、大卒だ。
これらの報告調の文体では、「Nときたら」文は不自然になります。(これは堤のオリジナル分析であって、岩男はそこまで言っていません。僕の理解であることを断っておきます)
ところで、「ときたら」というのは「と」(引用)+「来る」(動詞)+「たら」(条件)という組み合わせでできている表現で、そのどこにも、「評価」とか「感情」といった意味は見いだせません。なのに、なぜ、評価の意味は生じるのか? これが彼の問題設定です。
この分野の研究はまだ始まったばかりという気がしています。
こちらについては僕もいくつか書いておりまして、参考にしていただければと思います。
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/list/ou_authors/T/50a35788630f79f374506e4da22f6611/item/54446
バリエーションの中の日本語史
岩男考哲(2021)「名詞に対する「評価的」意味はどのように生じるのかー「評価的」意味研究の更なる発展に向けて-」『名詞研究のこれまでとこれから』106-125,くろしお出版
★この文章はnoteのものと同じです。
タグ :日本語学
ダニエル・ハーディングという指揮者をご存じでしょうか。なかなかイケメンのイギリス人指揮者です。
1996年といいますから、弱冠21歳でベルリンフィルを指揮し、その後ウィーンフィルなど、世界の名だたるオーケストラと共演しています。
ところが!!
彼は元来の飛行機好きが高じて、2019年、44歳のときに指揮者を休んで、パイロットになってしまいます。エールフランスという航空会社です。
3月25日(木)は岡山大学の卒業式でした。ハーディングのことはなんとなく知っていたのですが、「わーすごーい」くらいであまり気にしていなかったのですが、卒業生に何かを語らねばと思っていたときに、彼のことを見て、彼のことを話そうと思ったのです。
1つ目は、卒業しても、好きなことをやって生きていってほしいということ。
2つ目は、好きなことをやって生きるには、努力が必要だということ、
3つ目は、好きなことをやるためには、周囲の理解が必要だということ。
みなさんが昨日、4年間楽しかった、特に最後の一年間は楽しかった、と言ってくれて、うれしかったです。
コロナで会えなくても、みんなはこの一年間を自分なりに意味あるものとして過ごすことができました。その手伝いができたことは光栄です。
「自分で考えるということの楽しさを知った」というKMさんのことばは、その楽しさの本質を言語化してくれています。
KTさんが「研究が楽しいことを知った」と言ってくれたのも、KAさんが「ことばのおもしろさに気づいた」というのもとても頼もしく感じました。
楽しく生きることはものすごく大事です。この一年間、みんなに言い続けたことが、みんながこれから壁にぶち当たったときに、みんなの一助になることを願っています。
同時に、楽しく生きることはとても大変です。好きなことをやって生きていくには、努力が必要です。ときには才能のようなものが必要なときもあるでしょう。でも、好きならできるのが努力です。きっと楽しく乗り越えることができるでしょう。
好きなことをして生きたくても、生きられない環境にいる人々も世界中にいます。ミャンマーを見てください。みなさんの中には、ヤンゴン外大とのイベントに参加してくれた人もいますが、もしかしたらみんなと楽しく話した彼ら、彼女らは、いま生命の危険に晒されているかもしれません。
世界や社会に興味を持ってください。
そして、放っておくと、自由は気づかないうちに周りから徐々に消えてなくなっていくものなのだということを、肝に銘じてください。
長々と書きましたが、要するに、勉強し続けてください。昨日も言いましたが、何年後かに、みんなに出会うとき、いまのままの話、いまのままの話し方や振る舞いだったら、きっと残念です。みんながすごく成長して僕の周りに現れることを楽しみにしています。そのときまで、僕も勉強し続けなければなりません。
最後の最後に言うことはただ一つです。
何があっても、心身の健康を一番大切に。
たくさん遊んで、たくさん旅行して、たくさんの人と出会って、たくさんいい音楽を聴いて、本を読んで、おいしい酒を飲んでください。
卒業おめでとう!
1996年といいますから、弱冠21歳でベルリンフィルを指揮し、その後ウィーンフィルなど、世界の名だたるオーケストラと共演しています。
ところが!!
彼は元来の飛行機好きが高じて、2019年、44歳のときに指揮者を休んで、パイロットになってしまいます。エールフランスという航空会社です。
3月25日(木)は岡山大学の卒業式でした。ハーディングのことはなんとなく知っていたのですが、「わーすごーい」くらいであまり気にしていなかったのですが、卒業生に何かを語らねばと思っていたときに、彼のことを見て、彼のことを話そうと思ったのです。
1つ目は、卒業しても、好きなことをやって生きていってほしいということ。
2つ目は、好きなことをやって生きるには、努力が必要だということ、
3つ目は、好きなことをやるためには、周囲の理解が必要だということ。
みなさんが昨日、4年間楽しかった、特に最後の一年間は楽しかった、と言ってくれて、うれしかったです。
コロナで会えなくても、みんなはこの一年間を自分なりに意味あるものとして過ごすことができました。その手伝いができたことは光栄です。
「自分で考えるということの楽しさを知った」というKMさんのことばは、その楽しさの本質を言語化してくれています。
KTさんが「研究が楽しいことを知った」と言ってくれたのも、KAさんが「ことばのおもしろさに気づいた」というのもとても頼もしく感じました。
楽しく生きることはものすごく大事です。この一年間、みんなに言い続けたことが、みんながこれから壁にぶち当たったときに、みんなの一助になることを願っています。
同時に、楽しく生きることはとても大変です。好きなことをやって生きていくには、努力が必要です。ときには才能のようなものが必要なときもあるでしょう。でも、好きならできるのが努力です。きっと楽しく乗り越えることができるでしょう。
好きなことをして生きたくても、生きられない環境にいる人々も世界中にいます。ミャンマーを見てください。みなさんの中には、ヤンゴン外大とのイベントに参加してくれた人もいますが、もしかしたらみんなと楽しく話した彼ら、彼女らは、いま生命の危険に晒されているかもしれません。
世界や社会に興味を持ってください。
そして、放っておくと、自由は気づかないうちに周りから徐々に消えてなくなっていくものなのだということを、肝に銘じてください。
長々と書きましたが、要するに、勉強し続けてください。昨日も言いましたが、何年後かに、みんなに出会うとき、いまのままの話、いまのままの話し方や振る舞いだったら、きっと残念です。みんながすごく成長して僕の周りに現れることを楽しみにしています。そのときまで、僕も勉強し続けなければなりません。
最後の最後に言うことはただ一つです。
何があっても、心身の健康を一番大切に。
たくさん遊んで、たくさん旅行して、たくさんの人と出会って、たくさんいい音楽を聴いて、本を読んで、おいしい酒を飲んでください。
卒業おめでとう!
【遠隔授業について】
遠隔授業についてはたくさんの記事がすでに配信されている。Facebook上では大学教員のグループがあって、そこでどのようにすればスムーズに遠隔授業が行えるかについて、いろいろな議論が交わされている。例えば下のようなもの。
「コロナで危機の大学教育、遠隔授業は救世主になるか」(JBPress)
「大学教員、のしかかる負担」(毎日新聞)
このほか、ネットでは見つけられなかったが、毎日新聞の紙面版では5月9日(土)の記事に「対面講義不要? 教員焦り」というタイトルで記事がある。
どの記事にも共通点があって、それは、遠隔授業の課題を「対面授業にいかに近づけるか?」というところに措いている点である。
その結果だと思うが、教育目標の設定が、つまりはシラバスの内容が、以前と同じになっている。
それは無理であると思う。
遠隔授業というものは、対面授業とはまったく別のものであり、別の能力を測る。そして、同時に学生の能力を伸ばす可能性を多々秘めている。
教員は、遠隔授業をしながら、今後復活するであろう対面授業の新しいあり方について考える必要がある。
学生は、いままでと同じような姿勢で授業を受けていると、気づいたら隣のあいつにものすごく差をつけられていた、ということになりかねない。そしてそれは、コロナ後、ずっと続く、というようなことを覚悟した方がいい。
以下、遠隔授業は対面授業と何が違っているかについて書いた。その中で、学生の能力にものすごく差がつくだろうということを言っている。
★★★★★★★
上記、毎日新聞の紙面版の記事では、遠隔ならNHKの番組のほうがクォリティーが高いという意見や、全国の人気講師に学生が持っていかれるといった懸念が書かれている。記事はそれらを紹介して、大学教員の苦悩を描いている。
まだ始まったばかりで分からないことが多いが、いくつか思ったことを羅列すると、
1 対面と同じことを、同じようにすることは不可能。
2 これまで以上に、学生の自主性が重んじられる。(暫時、大学教育ということだけに限定すれば、それは歓迎されるべきことだと思う)
3 遠隔授業に対して学生は、「気分転換」を求めている。
ということである。
1については自明のことで、接続環境の問題等で、ずっと繋ぎ続けることは難しいし、人数が増えた場合には学生は顔を見せたがらない。ので、まったく異なる方法を検討すべき。
2も、1から考えれば当然の帰結である。教員と「接触」する時間が限られるのだから、教員はこれまでやっていた「サービス」ができない。具体的にはプリントを準備して印刷して配る(こんなことしてた人がどれくらいいるのかは知りませんが)とか、教室をぐるぐるまわって学生の状況を把握するとか。
そもそも、学生は顔を見せたがらないので、子供たちが何をしているか分からない。
個人的にはこれはともにいいことであると思っている。資料はサイトにアップ。それをダウンロードして授業に「来る」なり、課題をやると指示しておく。
「指示どおりに動こうと思えば動くことができる」というのは、本当は大学の間に身につけておかなければならない重要極まりない能力であるはずなのに、「学生さんはお客様です」的な言説のせいで、彼らがやるべきことを全部先生が「奪って」きた。つまりは、やってあげていた。今回、遠隔になって、指示したことが出来る子と、出来ない子の差はおそろしく明白。それは、対面では見えなかったことなのかもしれない。
顔を見せたがらないのも、最初は嫌やなーと思っていたけれど、プライバシーの問題とかで仕方ない。顔見せろと強要すると、ハラスメントになると思う。とすると、聞いていたか聞いていなかったかを、別の方法で確認するしかない。
一つの方法はZOOMのブレイクアウトセッションを利用することである。ちっちゃなグループに分かれて活動するための機能だが、先生がブレイクアウトセッションを開始させると、学生側は「参加する」というボタンを押すように求められるようだ。その場にいない学生は、グループに参加しない(ボタンを押さない)。話しかけても返事しない。ので、その学生だけが画面に表示されたままになる(=他の学生は各々のグループに「旅立つ」)。
ここまで来ると、減点対象としても良いように思う。グループ活動が苦手な学生には配慮が必要ということになっているので、授業に来るのは自由ということにしてある。この場合、授業に来たほうが、授業に来ないより減点されるということがあり得る。世の中そういうもんである。
2が長くなるが、学生には、遠隔授業では、課外学習がこれまでより遥かに重視されることを伝えたほうが良い。これも同じ。先生との接触が少ないことと、大学では学生の最終的な目標や出口のあり方が千差万別であることを考えれば、授業を聞いただけで何かが完結することはあり得ない。先生が指導する時間が限られるなら、その完結しない部分を自分で見つけ出す力、足りないところをなんとかして埋めようとする試行錯誤、その過程で磨かれる知性と探究の力、そういうものが求められる。
容易に想像がつくと思うが、めちゃくちゃ差が出ます。その差は、対面のときとは比べ物にならないことになるだろう。それは、やらない子が落ちこぼれるのではなく、やる子がとんでもなく伸びるからなのだと思う。その意味でも、これまでの教育はサービス過剰であったのだ。過剰なサービスは甘やかしを生む。
3について。学生のコメントを見ていると、この特殊な状況においては、「久しぶりに同じくらいの歳の人と話せてよかった」的なコメントをする学生がちらほらいる。先述のブレイクアウトセッションを用いれば、まったくランダムにグルーピングされるので、知らない人と話す機会にもなっているようである。
授業のうち一度はこの、「学生が喋る時間」を作るというのは重要。なんなら「雑談してください」でも良い。
★★★★★
ざっと思いついたことを書いてみたが、遠隔授業は、対面授業とは違うのだというごく当たり前のことを分析してみると、そのやり方も、求める能力も、違ってくるだろうと思う。この際、学生に好きなようにやってもらうのが良い。バラバラのパフォーマンスを評価するのは骨が折れる。その負担増はもう諦めた。
実験系、フィールドワーク実習等、対面でなければ出来ない授業のことは、ここでは考慮していない。その点悪しからず。
ただ、日本語教育演習は、少人数ならかろうじてできそうな気がしている。
★★★★★
最後に。
保護者として大学に子供を入学させたらいきなり遠隔授業になりましたという先輩というラインで話した。
高校生の親であるところの友人とはこちらのコメント欄でやり取りしたので、見られるようになっている。
保護者側の方々が何を見ておられるのかを聞くのは興味深い。
本当は、学生は何を思って、保護者は何を見ているのか。また教えてくだっせ。
★★★★★
遠隔授業についてはたくさんの記事がすでに配信されている。Facebook上では大学教員のグループがあって、そこでどのようにすればスムーズに遠隔授業が行えるかについて、いろいろな議論が交わされている。例えば下のようなもの。
「コロナで危機の大学教育、遠隔授業は救世主になるか」(JBPress)
「大学教員、のしかかる負担」(毎日新聞)
このほか、ネットでは見つけられなかったが、毎日新聞の紙面版では5月9日(土)の記事に「対面講義不要? 教員焦り」というタイトルで記事がある。
どの記事にも共通点があって、それは、遠隔授業の課題を「対面授業にいかに近づけるか?」というところに措いている点である。
その結果だと思うが、教育目標の設定が、つまりはシラバスの内容が、以前と同じになっている。
それは無理であると思う。
遠隔授業というものは、対面授業とはまったく別のものであり、別の能力を測る。そして、同時に学生の能力を伸ばす可能性を多々秘めている。
教員は、遠隔授業をしながら、今後復活するであろう対面授業の新しいあり方について考える必要がある。
学生は、いままでと同じような姿勢で授業を受けていると、気づいたら隣のあいつにものすごく差をつけられていた、ということになりかねない。そしてそれは、コロナ後、ずっと続く、というようなことを覚悟した方がいい。
以下、遠隔授業は対面授業と何が違っているかについて書いた。その中で、学生の能力にものすごく差がつくだろうということを言っている。
★★★★★★★
上記、毎日新聞の紙面版の記事では、遠隔ならNHKの番組のほうがクォリティーが高いという意見や、全国の人気講師に学生が持っていかれるといった懸念が書かれている。記事はそれらを紹介して、大学教員の苦悩を描いている。
まだ始まったばかりで分からないことが多いが、いくつか思ったことを羅列すると、
1 対面と同じことを、同じようにすることは不可能。
2 これまで以上に、学生の自主性が重んじられる。(暫時、大学教育ということだけに限定すれば、それは歓迎されるべきことだと思う)
3 遠隔授業に対して学生は、「気分転換」を求めている。
ということである。
1については自明のことで、接続環境の問題等で、ずっと繋ぎ続けることは難しいし、人数が増えた場合には学生は顔を見せたがらない。ので、まったく異なる方法を検討すべき。
2も、1から考えれば当然の帰結である。教員と「接触」する時間が限られるのだから、教員はこれまでやっていた「サービス」ができない。具体的にはプリントを準備して印刷して配る(こんなことしてた人がどれくらいいるのかは知りませんが)とか、教室をぐるぐるまわって学生の状況を把握するとか。
そもそも、学生は顔を見せたがらないので、子供たちが何をしているか分からない。
個人的にはこれはともにいいことであると思っている。資料はサイトにアップ。それをダウンロードして授業に「来る」なり、課題をやると指示しておく。
「指示どおりに動こうと思えば動くことができる」というのは、本当は大学の間に身につけておかなければならない重要極まりない能力であるはずなのに、「学生さんはお客様です」的な言説のせいで、彼らがやるべきことを全部先生が「奪って」きた。つまりは、やってあげていた。今回、遠隔になって、指示したことが出来る子と、出来ない子の差はおそろしく明白。それは、対面では見えなかったことなのかもしれない。
顔を見せたがらないのも、最初は嫌やなーと思っていたけれど、プライバシーの問題とかで仕方ない。顔見せろと強要すると、ハラスメントになると思う。とすると、聞いていたか聞いていなかったかを、別の方法で確認するしかない。
一つの方法はZOOMのブレイクアウトセッションを利用することである。ちっちゃなグループに分かれて活動するための機能だが、先生がブレイクアウトセッションを開始させると、学生側は「参加する」というボタンを押すように求められるようだ。その場にいない学生は、グループに参加しない(ボタンを押さない)。話しかけても返事しない。ので、その学生だけが画面に表示されたままになる(=他の学生は各々のグループに「旅立つ」)。
ここまで来ると、減点対象としても良いように思う。グループ活動が苦手な学生には配慮が必要ということになっているので、授業に来るのは自由ということにしてある。この場合、授業に来たほうが、授業に来ないより減点されるということがあり得る。世の中そういうもんである。
2が長くなるが、学生には、遠隔授業では、課外学習がこれまでより遥かに重視されることを伝えたほうが良い。これも同じ。先生との接触が少ないことと、大学では学生の最終的な目標や出口のあり方が千差万別であることを考えれば、授業を聞いただけで何かが完結することはあり得ない。先生が指導する時間が限られるなら、その完結しない部分を自分で見つけ出す力、足りないところをなんとかして埋めようとする試行錯誤、その過程で磨かれる知性と探究の力、そういうものが求められる。
容易に想像がつくと思うが、めちゃくちゃ差が出ます。その差は、対面のときとは比べ物にならないことになるだろう。それは、やらない子が落ちこぼれるのではなく、やる子がとんでもなく伸びるからなのだと思う。その意味でも、これまでの教育はサービス過剰であったのだ。過剰なサービスは甘やかしを生む。
3について。学生のコメントを見ていると、この特殊な状況においては、「久しぶりに同じくらいの歳の人と話せてよかった」的なコメントをする学生がちらほらいる。先述のブレイクアウトセッションを用いれば、まったくランダムにグルーピングされるので、知らない人と話す機会にもなっているようである。
授業のうち一度はこの、「学生が喋る時間」を作るというのは重要。なんなら「雑談してください」でも良い。
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ざっと思いついたことを書いてみたが、遠隔授業は、対面授業とは違うのだというごく当たり前のことを分析してみると、そのやり方も、求める能力も、違ってくるだろうと思う。この際、学生に好きなようにやってもらうのが良い。バラバラのパフォーマンスを評価するのは骨が折れる。その負担増はもう諦めた。
実験系、フィールドワーク実習等、対面でなければ出来ない授業のことは、ここでは考慮していない。その点悪しからず。
ただ、日本語教育演習は、少人数ならかろうじてできそうな気がしている。
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最後に。
保護者として大学に子供を入学させたらいきなり遠隔授業になりましたという先輩というラインで話した。
高校生の親であるところの友人とはこちらのコメント欄でやり取りしたので、見られるようになっている。
保護者側の方々が何を見ておられるのかを聞くのは興味深い。
本当は、学生は何を思って、保護者は何を見ているのか。また教えてくだっせ。
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