岩男考哲氏は神戸市外大の先生である。
彼は、これからの日本語学を背負って立つ、中堅研究者の一人であり、数多くの査読論文を発表し、
単著も書いておられる。
引用形式を含む文の諸相 叙述類型論に基づきながら
この度、『名詞研究のこれまでとこれから』という本を上梓され、ご恵投に与ったので、御礼方々紹介したくなった次第。
名詞研究のこれまでとこれから
といっても、彼の論考の内容そのものに、ここで触れるつもりはない(拙論を引いて議論してくださっています。こちらにも感謝)。
今回紹介したいのは、彼の文章力である。
一言で言うと、彼の論文は極めて読みやすく、明晰である。
こんな論文が書いてみたい。この文章力があれば次々に査読に通るのも肯ける。
そんな文章である。
何がそんなにすごいのか?
一言で言うと、読者が迷子にならないような仕掛けが、至る所に施されているのである。
まず最初に、この論文で何を目的にするか、どのような結論を導くか、その結論を導くためにどのような議論がなされるかが数行で書かれている。そして、その通りに各セクションが進んでいく。
セクションの中でも、いま読者は、全体の中のどの部分を読んでいるのかということが、大凡1ページに1回は明記されている。次のような感じである。
以上が、本稿の注目する先行研究の指摘である。続いて、これら2点について本稿がどう捉えるかを述べていきたい。岩男(2014,2019)では上記のような指摘がなされているものの、それらの間の関連性についての考察が十分に行われていない。しかし本稿では、これら2点は関わりのある指摘だと考える。以下、この点について述べていこう。(岩男(2021:112))
ここで彼は、「ここまでで述べたことは、先行研究のまとめとそれについての指摘である」ことを述べた上で、次にこの論文で彼がそれを「どのように捉えているかを述べる」としている。ご丁寧に、その結論として「これら2点は関わりがあるということを論じる」と書いている。
こんなの当たり前と思われるかもしれないが、その当たり前のことができる学者は稀少だと思う。僕も含めて、彼の文才には遠く及ばない。
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以下、うっかりデスマスで書いたのでセクションを変えてと……
内容については、いずれどこかで発表することもあるかと思いますが、ここでは読者の関心のために、彼がやっている「評価的意味」の分析対象についてだけ紹介しておきます。
「Nときたら」という表現は、何らかの評価を伴います。
(1)山田ときたら、今日も遅刻しやがった。
(2)堤ときたら、まったく信用ならない。
のように。
(3)??今日の天気ときたら、晴れです。
(4)??山田ときたら、大卒だ。
これらの報告調の文体では、「Nときたら」文は不自然になります。(これは堤のオリジナル分析であって、岩男はそこまで言っていません。僕の理解であることを断っておきます)
ところで、「ときたら」というのは「と」(引用)+「来る」(動詞)+「たら」(条件)という組み合わせでできている表現で、そのどこにも、「評価」とか「感情」といった意味は見いだせません。なのに、なぜ、評価の意味は生じるのか? これが彼の問題設定です。
この分野の研究はまだ始まったばかりという気がしています。
こちらについては僕もいくつか書いておりまして、参考にしていただければと思います。
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/list/ou_authors/T/50a35788630f79f374506e4da22f6611/item/54446
バリエーションの中の日本語史
岩男考哲(2021)「名詞に対する「評価的」意味はどのように生じるのかー「評価的」意味研究の更なる発展に向けて-」『名詞研究のこれまでとこれから』106-125,くろしお出版
★この文章は
noteのものと同じです。